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小さく切り取る毎日

介護の仕事のことや准看護学校の生活のこと、旅、気になったことなど

「写真を撮ってくれるのかね、…こんな老いぼれ婆ちゃんでよければ」

 「自分なんか、こんな老いぼれ婆ちゃんなんか…」それが口癖のあるおばあちゃん。

今日は、クリスマスカード用の写真を撮らせてもらった。

何十人もの子供を取り上げてきたその手と眼差しからは、彼女の生き様を知ることができる。表情ももちろんそうだ。普段からそんな顔をもつ彼女の、それ以上のベストをおさめるには、一体どうしたらと思っていた。

 写真を撮るために対面する。何の表情も作らなくても、彼女らしさがレンズ越しに100%伝わってくる。でも「もっといい顔を見たい」、そんな欲求を抑えられずにいたその時に。ふとおばあちゃんはあのいつものセリフを言った。

「どうかね、老いぼれ婆ちゃんは?」

とっさに、「うーん、もっと老いぼれ婆ちゃんになってください笑」と、失礼極まりない応答。もっといい顔を見たいが、どうすればいいのか、葛藤の中言葉は出てきてしまった。

 

すると彼女は顎を高く上げて、少し目を細くして大きく笑い始めた。

自信にあふれた、その人生の壮大さを感じさせる笑顔。

シャッターをきり、漏らさざるを得ない「すごいな」の言葉。彼女の人生を一瞬にしてぶつけられた感覚。

そのエネルギーに、「だからお年寄りとの付き合いがやめられないんだよねー」と改めて思った。

 

 

思いが話せるトイレの中

「私はね、いろいろ自分でやれって言われるでしょう。しかも怒ったような口調で言うからね、だから自分で少しはやろうとするんだよ。でもやったらやったで『ちがう!』って言われるんだよ。そう言われるとやりたくても、ほら、お世話になっているからね、でもやらない方がいいのかなって思っちゃうんだよね。中には全部何から何までやってもらう衆もおるけれどね、何も言わないでね。でも私はちょっとでもやりたいから教えてもらうんだけれど、忘れちゃうこともあるんだよ。そうするとその都度聞かないといけないから、悪いなぁと思っちゃうよ。『前も言ったでしょ』って怒る人もおるんだよ。でも、こうやって面倒見てくれてることに、ほんとうは感謝しないといけないんだけれどね。ほんとにありがたいと思っているよ。でも、こう、年取って体の自由がきかなくなることはほんと情けないもんだよね。そうこう言っている間におしっこが出てきそうだよ、…」

 

トイレはいつだって秘密の場所だ。

それにしてもおばちゃんの日々の気持ちが、トイレの中であふれだしていた。

 

ハッとさせられたところ

○その人にとっての自立とは?何でもかんでも手伝うのって?やってもらうのもって?個人的な価値観じゃなくて、本人の意思に耳を傾けていたか?

○怒ることは、その人の脳(意思)を奪っている

○体の自由がきかないことに対して、その状状況に置かれた人の心を理解しようとしていたか?

 

おばあちゃんのなかに、こんな葛藤があったなんて思いもしなかった。しかもこんなにつらつらと。

最後に、「こういうこともね、言える人と言えない人がいるんだよ。私はなんでもすぐに忘れてしまうから、あなたの名前すらもわからないけれど、話を聞いてくれそうだから言ったのよ。」と。

勇気に感謝するとともに、この気持ちを受けて、自分にできること、自分をどう変えられるかをかんがえる。

 

初雪の朝

雪は嫌いだ。なぜ嫌かって、交通障害を引き起こすからだ。

昼ごろまで降り続いた雪は、今年の初雪だった。現実と向き合わさせられる。これからの数ヶ月が思いやられる。

早起きにゆっくり運転、疲労とイライラを蓄積しながら職場に着く。テラスの窓の近くに、早起きして雪を見つめるおばあちゃんがいた。

「○○さん、朝から雪で寒いし早起きだしもう最悪ですよー。とりあえず早く雪止まないですかね?」。溜める場所のない不満が溢れだしてしまう。少しの沈黙の後、雪を見ながらおばあちゃんは言った。

「うーん、まぁ初雪なんだから勘弁してやってよ」。

 

参りました。

「そろそろ落ち着こうと思って」

「そろそろ落ち着こうと思って」。先日、約3年ぶりに再会した友人が繰り返した発した、結婚に向けての言葉である。
彼氏もいない、冬が近づくにつれてさみしさを感じている現在、友人の言葉はただただ衝撃的だった。
しかしもっと強くハッとしたのは、人生の時間感覚の違いというものについて。同い年で、高校時代は比較的一緒にいることが多く、なんとなく同じ時間の流れの中を生きているような気がしていた。いや、私たちは同じ時間の流れの中に、確かに生きていたし、実は今も生きている。でも、人生にはまたそれぞれの時間軸や速度そんなようなものがあるようだ。
「そろそろ落ち着こうと思って」、なんて、若干25歳が使う言葉じゃないと思っていた。でもそれは私の人生の時間軸からの見方であり、友人はもう十分遊びつくした後のなのだって。
人生のターニングポイントを迎えようとする姿を見て、友人のその大きな決断に拍手を送る。ついでに、まだまだ想像もできない自分の未来への想いも乗っけて。

兄弟を感じる

 兄弟って、友達とはまた違う気持ちを抱かせる存在だ。

 弟と2年半ぶりに再会した今日、やっといろんな話ができるようになった。友人の兄弟関係の話を聞いては、「ウチは仲良くないのかな」と比べてきた蟠りが解かれる。

 散々迷惑をかけた兄弟が、こうして私に向き合ってくれる、慕ってくれるようになった。彼らの人間力と育ててくれた両親への感謝の思いが溢れる。

  「安心と覚悟」。兄弟である事実は一生変わらず、運命を共にする者同士をつなぐキーワードだと考えた。

「今年の七夕でな、娘に会えますようにって書いたんだよ」

 「今年の七夕でな、娘に会えますようにって書いたんだよ」。朝、松屋で彼はこう話してくれた。

  釜ヶ崎に来て、もう5日。炊き出しや夜回り、いろんな人と会って、いろんな人がいることを知った。そのうちの一人、Aさん。「バカでアホな奴です」が自己紹介のセリフで、面白く優しく、笑顔が素敵な方だ。今朝一緒に食事をした席で、家族の話になり、短冊のことを教えてくれたのであった。

「離婚してから一度も合わせてくれへんのや。会いたいんやけどな」。いつものAさんらしく、気丈に笑顔で、また軽い調子で語るのだが、私は思わず表情をなくした。

 話だけでも身を裂かれそうな状況を、彼はどう受け止めていったのだろうか。遠くから娘の成長を祈り、想像し、ていたのだろうな。もっと父親でいたかったのだろうな。

 彼の人生の片鱗に触れて、 彼の強さを痛いほど感じた。

「えっとなぁ〜、こっちやと思うで」

 おっちゃんに道を尋ねると親切に答えてくれるも、その先には目的地はなかった。

 動物園前から今池へ、歩いてドヤへ。暗いしiPadだし、なんとなく目立つと思ったので、人に尋ねて今池を目指すことにした。単純な道のりなのに、いろんな方向へ歩いては歩いた。

 道を尋ねると、「えっとなぁ〜」とタバコを吸いながら教えてくれる。そこに悪意や複雑な意図はなく、純粋に私に対して応えてくれている姿勢が伝わる(それなのになかなか目的日たどり着かないのだけれど)。

 なんとか無事にドヤに辿り着いて部屋のゴキブリチェックをし、落ち着く今。

 私に道を示してくれたおっちゃんたちは、暗闇を彷徨い、今夜は一体どこへ行くのだろうか。